エッセイについて

扉のむこうにはいつも新しい世界が広がっている。

水平線をめざす船乗りのように

ラクダで月の砂漠をいく隊商のように

旅する扉を開けてみよう。

毎月1回、写真と短い文章で綴る世界各地からの体験記。

絵はがきを受け取るような気軽さと

好奇心をちょっと刺激する旅の扉でありたいと思っています。

もくじ

- About me

- 第1回 第2回 第3回 第4回 第5回 第6回 第7回 第8回 第9回 第10回

- 第11回 高麗地蔵 長崎県 久賀島 (2012.07)

- 第12回 石敢当 沖縄県 (2012.08)

- 第13回 コロンブスが見た景色 プエルトリコ (2012.09)

- 第14回 サーフィン ハワイ (2012.10)

- 第15回 砂漠のバラ チュニジア (2012.11)

- 第16回 エンジェルフォール ベネズエラ (2012.12)

- 第17回 モアイ像 イースター島 (2013.01)

- 第18回 クロコダイル オーストラリア (2013.02)

- 第19回 航海者の岬 ニュージーランド (2013.03)

- 第20回 ペンギン 南極 (2013.04)

- 第21回 トンパ文字 中国 雲南省 (2013.05)

- 第22回 茶馬古道 雲南省 香格里拉 (2013.06)

- 第23回 幻のワイン 雲南省 茨中 (2013.07)

- 第24回 葦の浮き島 ボリビア (2013.08)

- 第25回 桃源郷 中国 湖南省 (2013.09)

- 第26回 エアーズロック オーストラリア (2013.10)

- 第27回 謎の巨大石造物 トンガ (2013.11)

- 第28回(最終回) 亜丁 中国四川省 (2013.12)


About me

高橋大輔(Daisuke Takahashi)

 探検家・作家。1966年秋田市生まれ。

「物語を旅する」をテーマに世界各地に伝わる神話、伝説などの伝承地に

フィクションとノン・フィクションの接点を求めて旅を重ねる。

2004年、坂田政太郎氏の協力を得て龍宮城のプロトタイプを求めて中国各地を

巡った。その追跡行は「浦島太郎はどこへ行ったのか』(新潮社)に結実。

著書は他に『ロビンソン・クルーソーを探して」(新潮文庫)、『間宮林蔵・

探検家一代』(中公新書ラクレ)『ロビンソンの足あと』(日経ナショナル

ジオグラフィック社)がある。

探検家クラブ(米国)、王立地理学協会(英国)フェロー会員。

ホームページ http://www.daisuketakahashi.com

公式ブログ http://blog.excite.co.jp/dt/

 

 


第1回 龍宮を探して -中国 山東省

	中国 山東省 蓬莱

 龍宮を探しに中国へ渡ったのは2004年のことだ。

 わたしがめざしたのは北東部にある渤海だった。海に突き出た山東半島に蓬莱と呼ばれる場所があるという。

 当時、浦島伝説を追いかけていたわたしは8世紀に書かれた最古の記録に注目していた。その中で浦島が出かけていく水界の楽園は龍宮ではなく、蓬莱だったとされている。

 古文書に記された蓬莱の様子、いや、現在でも浦島太郎の絵本に描かれている龍宮の宮殿やそこにいる女性の衣装は、中国の雰囲気を感じさせる。

 わたしは煙台という町を経由して蓬莱に到着した。見えてきたのは海に臨む高台に立つ風雅な楼閣だ。

 あまりにもイメージ通りの光景ではないかー。わたしは懐疑的になった。

 ところが帰りに立ち寄った売店で店番をしていたおばさんがこう言った。
 「今日は蜃気楼も出そうにないね」

 渤海は昔から蜃気楼が出現することで有名なのだという。いつしか不老不死の仙境があると信じられ、紀元前3世紀には秦の始皇帝さえもその地に思いを寄せた。

 蓬莱伝説を生んだのは蜃気楼だったのだー。

 わたしが探し求めてやって来た龍宮も、水平線の向こうに姿を消してしまったかのように思えた。

 

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第2回 世界樹の村 -中国 貴州省

	中国 貴州省 朗徳村のシンボル

 どこか不思議の世界に迷い込んだような感じー。

 2008年に中国西南部を旅した時のことだ。貴州省の朗徳村にたどり着いたわたしは狭い路地をくぐり抜け、大きな広場にたどり着いた。
 地面にはきれいに石が敷きつめられ、中央に1本の鉄柱が立っている。

 突然現れた光景を前に、わたしは舞台装置を見るような思いがした。
 朗徳村に暮らしているのは少数民族のミャオ族だ。近くにある彼らの集落はみな似たような構造になっているらしい。

 村人によれば、広場に立つ柱はとても神聖なものだという。

 そこには次のような伝説が伝わっている。

 昔、胡蝶媽媽 (コチョウママ)という蝶が楓(フウ・マンサク科)の木に卵を産みつけた。ジーユイと呼ばれる鳥がそれを暖め、卵が孵ると人間の祖先が誕生した。

 村の真ん中に立つ柱は、伝説に登場する楓の木に見立てられた村のシンボルだったのだ。

 村人が祭りについて教えてくれた。
「正月になれば、ここに村のみんなが集まってきます。銅鼓を叩き、柱を囲んで輪になって踊るんです。そうやって祖先と新年を迎えます」
 彼らは天地創造を教える世界樹に寄り添うにして、今なお神話の時代を生きている。

 

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第3回 朝ごはんの油条 -中国 湖南省

	中国 湖南省 揚げたての油条

 中国では朝ごはんも楽しみの時間だ。

 中国湖南省の田舎を旅していた時はお粥か麺、あるいはワンタンにするかで悩むことになった。

 鍋から上がる白い湯気は朝の清々しさだけではなく、食欲までかき立てる。
 この際だから全部食べてみたいー。
 悩んでいるうち、店のおじさんが揚げたての油条(ユウティヤオ)を持ってきた。

 これは小麦粉をこねて発酵させた生地を揚げたものだ。揚げパンとみなされることもあるが、厳密には主食ではない。

 一般的には添え物としてちぎってお粥に入れたりかじったりして、歯ごたえと香ばしさを楽しむ食物だ。
 日本ではなかなか油条を見かけない。中国と日本は数千年に渡って人と物が行き来してきたというのに不思議なことだ。

 考えた末、わたしはワンタン・スープと油条を注文した。
 ところが朝食を食べ終わった直後、お腹の調子を壊してしまった。
 連日油ものの食事が続き、過剰な油分に体が悲鳴をあげたようだ。
 なぜ油条が日本に普及しなかったのか。わたしはそのわけを体で理解したような気がした。

 

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第4回 カヌーと古代ロマン -タヒチ

カヌーは漁のためだけではなく交通手段でもある

 南太平洋に浮かぶポリネシアの島々を旅すると、アウトリガー付きカヌーをよく見かける。 船の片側に浮子をつけただけの、シンプルな造りだ。高波に飲まれても転倒しないようにするためだという。現地の人はこれを実に巧みに乗りこなす。そして普通のカヌーでは到底行けそうにない遠方へも果敢に出かけて行く。小型でシンプルな造りながら、冒険スピリットに溢れている。

 この船のルーツはいまだに謎のままだ。

 広大な太平洋に散らばる島々に同じ形のものがみられることから、これまで人々の好奇心と想像力が刺激されてきた。人類学者たちは台湾が発祥地ではないかと考えた。近年、ポリネシアの人々が、台湾の少数民族と同じオーストロネシア語族を祖先に持つことがわかってきたからだ。そのため彼らが太平洋へと漕ぎ出し、長い年月を経るうちに数千キロも離れたハワイやタヒチ、ニュージーランドやイースター島にまでたどり着いたのではないかと考えられるようになった。大海原を渡ることを可能にしたのはアウトリガー付きカヌーだったというものだ。  何ともロマンを掻き立てられる話だ。

 台湾にも似たような船はあるのだろうか。もし存在するならポリネシアとの接点を示す証拠になるかも知れないー。

 わたしは台湾の南東に浮かぶ小島の蘭嶼(らんしょ)へ出かけてみた。そこに暮らすタオ族は今でも伝統的なカヌーを使用しているという。トビウオ漁に使われる細身の船は舳先とともが大きくそり上がっていて、赤、白、黒の3色で装飾されていた。しかしそれにはアウトリガーは付いていなかった。

 果たして人々は本当に台湾からアウトリガー付きのカヌーでポリネシアにたどり着いたのだろうか。

 容易には解けない謎だけに、夢もまた膨らむ。

 

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第5回 白き虹 -中国 チベット自治区

チベットのタルチョ(祈祷旗)の上空にかかった暈

 標高4000メートルを越える中国チベットの僧院を旅した時のことだ。

 周囲が一瞬暗くなったような気がして、わたしは思わず空を見上げた。太陽を取り囲むように虹がかかっている。その神秘的な光景に思わず立ちすくんだ。何か特別なことが起こるのではないかー。期待と不安が入り交じったような気分を覚えた。

 一緒に旅をしていた中国人は、それが虹ではなく暈(かさ)だと教えてくれた。  暈は太陽に薄い雲がかかって、周囲に光の輪が現れる現象だ。雲の氷晶に光が当たってプリズムとなり、虹のような色を発する。白虹とも呼ばれ、その名の通り、どことなくロマンチックな気分にさせる。

 しかし中国では不吉の前兆だという。それは今から2000年以上も前の故事にちなむ。司馬遷の『史記』によれば、始皇帝暗殺が謀られた際に白虹が日輪を貫いたとされ、以後「白虹貫日」と言えば兵乱の兆しだと考えられるようになった。  ところが暈に関して調べているうち、 民間伝承のひとつに「太陽や月に暈がかかると雨になる」という古くからの言い伝えがあることを知った。それは気象学的にも正しいことが確かめられているようだ。暈は低気圧の接近にともなって起こりやすくなるらしい。

 わたしは2つの伝承には密接な因果関係がありそうだとひらめいた。

 古代中国において太陽は皇帝のシンボルとされていた。荒天の前兆として知られていた暈は、もともと太陽の存在を揺るがすような気象現象だったはず

だ。暈が始皇帝暗殺事件の日に起きたために、凶事の前ぶれと考えられるようになったとは言い切れないのではないかー。むしろそれは司馬遷の文学的な表現だったのかもしれない。

 民間伝承を通して眺めると、史実も違った表情をのぞかせる。

 いずれにしても昔の人は、暈を心底恐れていたのだ。

 空を見上げれば、そこにも歴史の息づかいが残されている。

 

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第6回 山が動いた! - グリーンランド

グリーンランド沖に浮かぶ氷山は雪山のようだ

 氷山の一角。

 頭では理解しているつもりでも、実際に目にするとそびえ立つ大きさに圧倒される。水面下にどれほどの氷塊が沈んでいるのか想像もつかない。

 グリーンランドで見た氷山は、天を突くような険しい表情をしていた。一般に南極の氷山は大陸から押し出された巨大な棚氷であるのに比べ、グリーンランドには山型のものが多いという。深く削られたフィヨルド氷河から海に押し出されるためだ。

 グリーンランドの氷山を一躍、悪名高きものにしたのは1912年4月に豪華客船タイタニック号が引き起こした海難事故だった。全長269メートルもある巨大な船が氷山に衝突し、3時間あまりで船体が2つに裂けて沈没した。犠牲者は1500人ほどにも及び、今なお世界中の人々に深い恐怖を与えている。

 タイタニック号を沈めた氷山はどのくらいの大きさだったのか? 目撃者の情報から、海上からの高さは20メートルほどだったようだ。客船の高さ(船底から煙突まで)が50メートルあったことからすると、船員には小さいものに見えたのかもしれない。しかしそれは破壊力を秘めていた。

 氷山が創世神話に登場するのは、北欧神話ぐらいのものだろう。巨大な氷山に命が宿ってユミルという原初の巨人が誕生したという。

 わたしがその神話にリアティを感じるようになったのは、イヌイットの家庭に招かれて昼食をとっていた時のことだ。

 テーブルにつくと木枠の窓から海が見え、そこに氷山が浮かんでいた。ところがクジラやアザラシのシチューを食べ終わるわずかの間に、窓から氷山が消えたのだ。わたしは思わず 「山が動いた!」と言って身を乗り出してしま

った。

 以来わたしは氷山を見るたびに、神話の中の巨人を思う。それは生きてい

て、音もなく海上を旅していくのだ。

 

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第7回 ヘミングウェイのピラール号 - キューバ

ヘミングウェイのピラール号

 ヘミングウェイの写真集を見たことがある。

 その中でわたしの印象に残ったのは、彼がマーリン(カジキ)を釣り上げた時の写真だ。カリブ海へと漕ぎ出し、半日がかりでしとめた魚は体重150キログラムを超える大物だ。大きな腹をせり出したヘミングウェイは、上半身裸のままで獲物の前に仁王立ちしている。どことなく海の王を支配した征服者のようにも見えた。

 その後、キューバへと出かけたわたしは、今は博物館となっている彼の邸宅を訪れてみることにした。マーリン釣りに行く時に乗っていた愛艇ピラール号も公開されているという。

 船は庭に展示されていた。全長12メートルだというが、実際に見ると想像していたよりも小さく見えた。巨大魚と死闘を演じた英雄のものとは思えない。そこには物静かな雰囲気さえ漂っていた。

 わたしはイメージと現実のギャップを感じながらそれに近づいていった。

 船尾に向くように椅子が設置されている。彼はそこに腰かけ、水平線と対峙したのだろう。

 いったいどんな思いで海を見つめていたのかー。

 ヘミングウェイは後にキューバでの体験をもとに『老人と海』を生み出し

た。小説の中で主人公の老漁師サンチャゴは死闘の末にマーリンを釣り上げ

る。しかしサメの襲撃に遭い、港に帰りついた時には骨だけになってしまっていた。物語には大自然に対する無力感が投影されている。

 写真で見る彼は勝利者のようだった。しかし本当は小説に出てくる老漁師と同じく、虚無を感じることも多かったのではないかー。

 彼にとって釣りとは自然を征服することではなく、むしろその逆だったに違いない。

 この船はそんなヘミングウェイと共に旅し、ずっと見守っていたのだ。

 

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第8回 世界最古の灯台 - トルコ

南トルコにある世界最古の灯台遺跡

 なぜか、灯台には心惹かれてしまう。

 荒海を命がけで行く船乗りの守護神というばかりか、断崖に立ち尽くす姿は孤高さを滲ませ、勇気を与えてくれるように思えるからだ。

 地中海を望む南トルコを旅した時のことだ。世界最古の灯台遺跡があると聞き、車を走らせた。

 台座に石が円形に組まれていたことはわかるが、ほとんどが崩落してしまっている。

 一緒に旅をしていた地元の考古学者によれば、これは紀元64年、古代都市パタラに造られたもので、石の数から高さ20メートルもあったという。当時としては驚くべき大きさだ。

 灯台は多くの船にとって道しるべとなったのだろう。そして町は交易で栄えたのだろう。

 わたしは発掘された町の中心部を訪ねてみた。敷地には円形劇場や議事堂ばかりか、いくつもの公共浴場が並んでいる。

 それらは古代ローマの遺跡を思わせた。強大な帝国の影響は南トルコにまで及んでいたのではないか。

 わたしは「すべての道はローマに通ず」という言葉を口にした。

 ところが考古学者は首をかしげた。パタラは古代ローマの支配に最後まで抵抗した都市だったという。必要なことは議会を開いて決め、最後まで自分たちの言葉や貨幣を守り抜こうとしたらしい。

 それを知ってわたしはふと思った。

 大きな灯台は本来の役割だけではなく、パタラの繁栄や国力を知らしめ、敵対するローマや世界に向けて示したパタラの人たちの気概だったのではないか。

 辺境に立つ灯台にこそ、国家の核心的なものを見ることができる。

 灯台はそこに暮らす人のことを饒舌に語っている。 

 わたしが灯台に心を寄せるのは、そこに人間の心が通っているためでもあるのだ。

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第9回 ナスカライン - ペルー

道路と交差するナスカライン

 古代文明の遺跡へ-。わたしが繰り返し旅に出かけるのはそこに驚きがあるからだ。科学技術がまだ発達していなかった太古、人間が造り上げた古代エジプトの神殿やイースター島のモアイ像などの巨大な建造物には圧倒されてきた。

 ところがペルーを訪れ、セスナ機で上空からナスカの地上絵を見た時、わたしは他の遺跡とは異質のものを感じた。

 砂漠に浮かび上がるクモやサル、ハチドリの絵。地上絵といえば動物などのイメージで知られるが、それらの数はほんのわずかでしかない。むしろ大地にはナスカラインと呼ばれる直線や図形が数多く描かれている。

 上空から見ると、ナスカラインは飛行機の滑走路を思わせた。わたしは自分が乗っている小型飛行機が今にもそこに着陸するのではないかと錯覚してしまった。  ふと疑問が湧き起こる。

 古代ナスカの人も空を飛べたのだろうか?

 いやそんなはずはない。しかし彼らが線や絵を実際に上空から見たことがなかったとするなら、そちらの方が大問題ではないか。彼らは心の中で図像をイメージし、あるいは机上の計算だけで造り上げたことになる。そのようなことは可能だったのか。

 いかなる手法であれ、そこにはわれわれ現代人が知らない秘密が隠されていそうだ。ひょっとすると失われてしまったすばらしい文明の知恵が過去にあったのかもしれない。

 それまで古代遺跡を見て単に驚いていただけのわたしは、漠然と古代人が現代人に比べて下等な存在だという視点に立っていたことに気がついた。本当はわれわれの方が退化した存在なのかもしれない。

 ナスカの地上絵はわたしの古代遺跡に対する考えを180度転換させた。

 古代文明の謎解きは、むしろ未来を拓く知恵を取り戻そうとする試みに違いない。

 

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第10回 海賊王の墓 - 中国安徽省

安徽省雄村郷拓林村にある王直の墓

 海賊の墓というとそれだけでミステリアスな感じがする。 

 大海の藻くずと消える運命を自ら選んでいるかのような海賊に、そもそも墓など存在しないようにも思えるからだ。

 中国安徽省には倭寇の頭目だった王直を祀った墓がある。

 倭寇とは13世紀以後、東アジアで活動した密貿易の商人たちのことをいう。  王直の墓に行ってみると意外なことに気がついた。

 村人で王直のことを知っている人は少なかった。そして知っている人のほとんどが彼に好感をいだいているとは言えなかった。王直は海賊だったのだから評判が悪くて当然だ。ところが彼の墓はきれいに整備され、立派な墓碑も建っている。  碑文によれば、2000年に長崎県の福江島の有志が墓地を整備し、この墓碑を建てたのだという。わたしは素朴な疑問を抱いた。なぜ福江島の人たちは中国の海賊の墓を異郷にまで出かけて整備しようとしたのかー。

 日本の歴史の中で王直は人々に知られているとは言えない。彼は16世紀、長崎県の福江島や平戸島に居を構え、密貿易を行ったとされる。日本の鉄砲伝来にも一役買っているというから、密貿易は日本の歴史を決定づけたものとして看過できない重要なできごとだったのだ。

 福江島の人々が王直の墓を整備したのは、忘れられつつある彼に対する供養であった。しかしそこには鎮魂ばかりか、日本の歴史を海から見直そうという暗黙のメッセージさえ読み取れる。

 日本にとって文明は海からもたらされた。日本に新しい時代の幕を開けたのは辺境に生きる海賊だったのだ。それを知り、わたしも墓前で手を合わせた。

 

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第11回 高麗地蔵 - 長崎県久賀島

首の長い高麗地蔵にロマンを感じる

 仏像にもいろいろなかたちがあるが、わたしは中でも地蔵に心惹かれる。

 信州に出かけたときのこと。日が暮れかけた山で道を見失い、迷子になりかけたことがあった。近くに地蔵が安置されていたおかげで、集落のある方角を見つけることができた。わたしにとって道端の地蔵は、安全な場所に導いてくれる存在なのだ。

 長崎県の五島列島のひとつ、久賀島にある高麗地蔵のことを知ったとき、好奇心をくすぐられた。海に沈んだ島から人々を救った地蔵だと言い伝えられていたからである。

 伝説によれば、かつて五島列島沖には、高麗島と呼ばれる豊かな島があっ た。ある時、島民の夢に地蔵が出てきて、「地蔵の顔が赤くなると、島が沈むだろう」というお告げがあった。それを聞いた心よからぬ者が、いたずらで地蔵の顔を赤く塗ると、島は本当に海の底に沈んでしまった。お告げを信じた人は地蔵を携え、波のまにまに漂いながら久賀島にたどり着いたのだという。

 地元の人に案内されてお参りに行くと、その地蔵は角が落ちてわずかに輪郭をとどめるだけだった。顔の表情などもわからない。しかし、他の地蔵に比べて、首が長い。これまで見たことがある地蔵とは、明らかに様子が違う。 わたしは奇妙に思った。

 島の人から話を聞くと、その姿形から、マリア観音ではないかという説があるらしい。かつて島には潜伏キリシタンが多かったという。あるいは高麗地蔵という名前から、朝鮮半島とのつながりも連想される。

 高麗島が本当に存在したかどうかはわからない。しかしこの地蔵は、久賀島の知られざる歴史の証人であることに違いはない。

 高麗地蔵はどこから来たのか。

 地蔵はわたしをロマンへと導いてくれる。

 

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第12回 石敢当 - 沖縄県

沖縄の至る所で目にする石敢当

 沖縄で不思議な石を見た。 

 現地の人によれば、これは石敢当(いしがんとう)と呼ばれる魔除けのおまじないで、主に三叉路やT字路などに建てられるという。

 なぜ三叉路やT字路なのか。

 沖縄では魔物は直進しかできないと信じられている。T字路のような行き止まりにぶつかると、曲がれずに屋敷に入ってしまう。それを撃退するために建てるのだという。

 とはいえ、単なる石ではだめらしい。「石敢当」という文字が彫り込まれ て、はじめて石は石敢当と認められる。だとすれば、石そのものというよりも、文字の霊力であることがわかる。言葉には霊が宿る。「魔物よ、敢えて石に当たれ」という呪文なのだろう。

 石敢当は中国から沖縄に伝わった。その分布を見ると、福建省を中心に、日本ばかりか台湾や香港、シンガポール、マレーシアにも広がっている。

 中国で本来のルーツを訪ねた。後漢(25~220年)の頃に生きた武将や力士の名前という説もあるようだが、詳しいことはわからない。

 謎に包まれたままであるがゆえに、かえってそれが石の威力を信じさせ、人間の信仰心を映し出す。

 沖縄では路傍で見かけるばかりか、おみやげ品として石敢当のミニチュアも売られていた。他の地域のことはわからないが、おみやげ品にまでしているのは沖縄だけではあるまいか。わたしはそれが、沖縄の人にとって、単なるおまじないではないことを知った。

 おみやげといえば、土地を象徴するものだ。石敢当は沖縄の人の意識の中心にあり、彼らはそれを最も沖縄らしいものだとみなしているのだ。

 石敢当を知らないうちは、沖縄を理解したことにならないだろう。

 わたしにとってそれは、沖縄を知るための旅のランドマークなのだ。

 

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第13回 コロンブスが見た景色 - プエルトリコ

サンクリストバルの要塞からみたプエルトリコの風景

 美しい風景に心を打たれ、もう一度行ってみたいと思うのがプエルトリコだ。  カリブ海に浮かぶ島で「豊かな港」を意味する名前の通り、今も多くの旅行者を魅了している。

 晴れた日の午後、 わたしは中心都市サンファンにあるサンクリストバルの要塞へと出かけた。敷地内の芝生の上に腰かけると、寄せては返す白波と海の青、それにパステルカラーに彩られた建物のコントラストの美しさが心に迫ってくる。  アメリカを発見したクリストファー・コロンブスが、この地にやって来たのは1493年のことだ。

 彼が大西洋を西へと航海して、インドにたどり着こうとしていたことはよく知られている。

 当時、大西洋の西方は未知の世界であり、魔物が棲んでいるかもしれないと恐れられていた。事実、海が荒れ始めると、船乗りたちは不安に駆られ引き返そうと主張した。

 コロンブスは船乗りたちをどうにかなだめ、新大陸発見という偉業を達成することができたのだ。

 しかし目指していたインドは、実際にははるか彼方だった。彼がようやくの思いでたどり着いたのはカリブ海の島々だった。

 彼はカリブ海の他の島同様、プエルトリコも、インドの一部だと信じて疑わなかったという。

 500年以上の歳月が経ち、当時と様子はだいぶ変わっているはずだ。それでも海と島とが世界を二分するような風景は、今でも人を魅了して止まない。わたしはこの輝きにコロンブスの心中を察する思いがした。

 たどり着いたプエルトリコは、彼らの苦労に報いるには十分すぎる楽園だったのだろう。

 コロンブスにとっては、そこが憧れの楽園インドでなければならなかったのだ。


第14回 サーフィン - ハワイ

夕日を背に波に乗るハワイのサーファー

 ハワイに行くと、海でサーフィンをしている人をよく見かける。技術のうまい、下手はともかく、みんな無心で波に向かっていく。ひたむきな様子を眺めているうち、彼らを波に向かわせるものは何だろうと疑問に思った。

 そもそも人間が波に乗ることを考えついたのは、いつのことか。

 実は、ハワイの神話にもサーフィンが登場する。

 タヒチから数千キロの航海をして、ハワイに新しい文化を伝えたとされる文化神モイケハ。彼はハワイのカウアイ島に到着すると、サーフィンをしていた人たちに会った。しばらくいっしょに遊んでいると、カウアイ島の王女がモイケハに一目惚れして結婚をする。後に彼は、カウアイ島の王を継いだ。

 モイケハはハワイ人の祖先神として神格化された存在だが、この神話の通り、古代のハワイ人とタヒチ人の間に交流があったことを主張する研究者は多い。

 神話によれば、モイケハがハワイに到着した当時、すでに人々はサーフィンをしている。サーフィンの歴史は神の時代にまで遡るほど古いのだ。同時に、神と人とを結びつけるきっかけとなった、神聖なものという見方もできる。

 太平洋を探検した欧米人が、初めてサーフィンをする人を目にしたのは18世紀後半のことだ。イギリスのキャプテン・ジェームズ・クックに同行した船員の記録には、「波の上でダンスを踊るようだ」と書かれ、人間業とは思い難いその曲芸に驚嘆した。

 広大な太平洋を探検したクックにとって、海とは挑むべき存在であった。臆することなく大波へと向かい、軽々と乗りこなすポリネシア人は自分たちよりも勇気があり、不思議な能力を持つ人たちに思えたのだ。

 その記録からも、サーフィンは単なる遊戯ではなかったことがわかる。脅威であるはずの自然と一体になることができる、神聖な儀式だったのだ。

 現代のハワイでも、海へこぎ出すサーファーにはどこか求道者のような面影を感じずにはいられない。

 

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第15回 砂漠のバラ - チュニジア

失われたオアシスに咲く砂漠のバラ

 「ローズ・ド・サハラ」(砂漠のバラ)と呼ばれる岩石を見たのは北アフリカ、チュニジアのサハラ砂漠だった。その名の通りバラの花に似た石には美しさばかりか、どことなくミステリアスな妖しさがある。

 砂漠のバラは水に溶けたミネラルが結晶になったものだという。地下に眠っている石膏が水によって溶け出し、地上付近まで上昇する。そして長い時間をかけて結晶になっていく。水が干上がると砂漠の地表付近にバラの形をした結晶だけが取り残されるというものらしい。

 生成プロセスを知れば知るほど、水と関係が深いことがわかる。

 サハラ砂漠にある水はほんのわずかでしかない。地下を細々と流れる水脈や地上のオアシスぐらいのものだ。

 どこに砂漠のバラを生み出すだけの水があるというのか。

 わたしは砂漠のバラを道ばたで売っていた遊牧民の少年に、どこで見つけたのかと聞いたことがある。彼らはわたしの質問をはぐらかし、「遠いところ」と答えるだけだった。

 おそらく大きく形が整った砂漠のバラがまだいくつもあって、勝手に奪われるのが嫌なのだろう。砂漠のバラはお土産品として、彼らが口を糊するための貴重な財源となっている。

 それはそれとして、もし砂漠のバラの在処を探ることができれば、失われたオアシスを見つけ出せるのではないかと思った。かつてサハラ砂漠には隊商が往来し、豊かに富んだオアシスがたくさんあった。それらの多くはオアシスの水が干上がり、砂漠の中に消えていった。

 アラビアンナイトの一夜のような、夢と幻想に満ちた場所を探し出してみたい。  わたしはそんな思いを抱きながら、砂漠のバラを見つめた。

 

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第16回 エンジェルフォール - ベネズエラ

轟音とともに水が落ちるエンジェルフォール

 もし昔の世界にタイムスリップして、他に誰も足を踏み込んだことのない場所を最初に探検する幸運に浴することができるなら、どこを選ぶだろうか? エジプトのピラミッド、グランドキャニオン、あるいはシルクロードか。わたしは南米のエンジェルフォールと答えるだろう。

 最大落差979メートル。世界最大の落差を誇るその滝は、地球上最後の秘境と言われるギアナ高地にある。アウヤンテプイと呼ばれるテーブルマウンテンから落ち込んでいる滝だ。

 わたしが滝の麓に出かけたのは2007年のことだ。ボートで川をさかのぼり、手のひらほどもある毒蜘蛛タランチュラが棲むジャングルを抜け、滝へと向かって歩いていた。突然、木の葉を叩くような音と共ににわか雨が降り出した。樹間から見上げると、空は快晴だ。にわか雨と間違えたのは、エンジェルフォールの水しぶきだった。滝はまだ2キロメートルも先だというのに、その水が降ってくることに驚いた。ところがもっと驚いたのは滝を間近で見た時だった。 屹立する崖から一直線に落ちてくる滝の水は、地面に落ちる前に空中で飛び散ってしまう。だから池のような滝壺がないのだ! いや、飛沫が飛んでくる2キロ先までが滝壺だといえる。知らない間にわたしはエンジェルフォールの滝壺の中にいるのも同然だったのだ。

 1949年に欧米の探検家として初めてこの滝の麓にたどり着いたのはルース・ロバートソンだった。彼女は記録にこう書いている。

 「その時のわたしたちの高揚感はとても言葉では言い表せない」

 1キロメートルほどの落差の滝があると知って出かける現代のわたしでも、その迫力に圧倒される。最初にこの滝にたどり着いた探検家の驚きたるや計り知れない。

 現地で圧倒されればされるほど、わたしは彼女の気分を味わってみたいと憧れるのだった。


第17回 モアイ島 - イースター島

顔の彫りが深く、耳の大きなモアイ像

 もし現代版「世界七不思議」を選ぶとするなら、わたしはそのひとつにイースター島のモアイ像を選ぶだろう。

 モアイ像とは何だったのか。なぜ人々は奇妙な形をした巨像を立てたのかー。 これまで島へ2度足を運び、湧き出る疑問の答えを現地で探し出そうとしたのだが、手がかりらしきものさえ掴めなかった。むしろ謎は深まっていくばかりだった。

 島の面積は166平方キロメートル。日本でいえば小豆島と同じ大きさの島内をめぐっているうちに気づいたことがある。一体一体の顔つきが違う。丁寧に見ていくと、それぞれは個性的な違いというよりも、人種の違いを物語るかのように大きく異なっている。顔の彫りが深いものがあるかと思えば、対照的に彫りが浅いものがある。面長のもの、短く丸っこいもの。耳の長いものや短いものもある。  島の住民に尋ねると、モアイ像は祖先の顔を模して造られたものだという。もしそれが事実ならば、島にはいろいろな人種がいたことになる。極端に言うなら、南太平洋の孤島にニューヨークのような人種の坩堝があったことになる。

 研究者の多くはモアイ像をポリネシア文化と結びつけ、その中で解釈しようとしている。大筋で正しいとしても、ひょっとするとそれがモアイをわかりにくくしているのかもしれない。

 彫りが深く、面長で、耳が大きいモアイの顔つきから連想されるのはヨーロッパ人だ。モアイになったヨーロッパ人がいたのではないかと想像が膨らむ。記録によれば、イースター島を初めて発見したのはオランダの探検家ロッヘーフェンで1722年だという。しかしすでにその時代、太平洋には欧州の海賊がはびこっていた。もしかしたら記録には残らない海賊の中に、現地に居着き、族長となり、モアイになった者がいたのかもしれない。これはあくまでわたしの個人的な思いつきにすぎないが、今度行くときは、その仮説をベースに島を探検してみたいと思っている。

 

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第18回 クロコダイル - オーストラリア

オーストラリアのクロコダイル

 オーストラリア北部のクイーンズランド州やノーザンテリトリーでは真夏になると午前10時に摂氏40度を越えるほどの暑さとなる。水辺が恋しくなって、湖や川に近づいていく。すると「クロコダイル注意」と書かれた警告板が目につく。もし襲われれば怪我をするだけでは済まず、命を落とすこともあるという。遭遇することは多くはないらしいが、水浴びをするのも命がけなのだ。

 ところで、もし運悪くクロコダイルに出会ってしまったらどうすべきだろう。  野生のクロコダイルがいない日本では検討もつかない。たとえばクマならば「死んだふりをする」という俗説のような言い伝えが知られている。しかしクマを前にして、本当に死んだふりなどできるだろうか。そうやって九死に一生を得たという人の話を聞いた記憶もない。

 本当に効果があるかどうかはさておき、クロコダイルにも撃退法があるらしい。  現地の人の話では「噛みつかれたら、目を突け」という。目を攻撃されると、クロコダイルは口を開く習性があるのだという。覚えておいて損はないが、噛みつかれた状態で、目を突けるほど冷静でいられる自信はない。

 クロコダイルに食われる可能性がいまだゼロではないオーストラリアだが、この国ではなぜか現地の人からその肉を食べるようにと薦められる。現地ではワニ肉の人気が高い。脂肪分とカロリーが低く、タンパク質を多く含むヘルシーな食材だとされるからだ。食べるとコレステロール値を下げるとも言われている。そう言われても、ワニの肉と知ると腰が引ける

 食うか、食われるか。オーストラリアではちょっと恐ろしいクロコダイルなのである。

 

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第19回 航海者の岬 - ニュージーランド

ギズボーンの海岸から見える白い岬

 ニュージーランドの北島にあるギズボーンは人口3万4000人ほどの小さい町だ。町は海に臨み、湾に突き出た半島が間近に見える。白く輝くその岬はヤング・ニックス・ヘッドと呼ばれている。

 そこは1769年10月、英国の探検家キャプテン・ジェームズ・クックが初めて見たニュージーランドの陸地であり、上陸した海岸だった。彼はマストの上から誰よりも先に陸地を見つけた12歳の少年ニコラス・ヤングを讃え、岬の名前をヤング・ニックとしたのだ。

 キャプテン・クックの足跡を追っていたわたしも2011年にギズボーンを訪ね、海岸から岬を眺めた。白墨のような半島が碧海の中に映え、遠くからやって来たクックらの目印になったことが納得できた。

 現地では、岬にもうひとつの名前がつけられていることを知った。

 テ・クリア・パオアといい、先住民マオリ族の言葉でパオアの犬という意味らしい。

 カヌーで海を越えてきたパオア船長が湾のどこかで愛犬を見失ったが、犬は主人をその岬で待っていたという伝説にもとづく。

 マオリが太平洋のハワイキと呼ばれる土地を後にし、ニュージーランドにたどり着いたのは1350年頃とされる。彼らもクック船長と同じように、洋上に浮かぶ白い陸地を見つけて、この海岸に上陸したのだろう。

 ひとつの場所が二つの地名で呼ばれていることには複雑な過去もある。

 マオリたちは突然やって来たキャプテン・クックに敵意を覚え、攻撃をしかけた。偶発的な戦闘が起こり死者が出るほどだったという。支配者としての暗い一面を直視せずして、キャプテン・クックの業績を正当に評価することはできない。  それでも白い身体を海上に横たえるような美しい岬を見ていると、やって来た人間を分け隔てなく迎え入れた土地の包容力を知る思いがした。

 

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第20回 ペンギン - 南極

アデリーペンギンの親子。南極にて

 南極に行った1992年のことだ。出発前に送別会を開いてくれた知人は、酔っぱらって「ペンギンとシロクマに会えるね」と言った。

 どちらも氷に閉ざされた大地に暮らしているので混同してしまったのだろう。当然のことながら、シロクマは北半球、ペンギンは南半球にしかいない。しかしその的外れな会話は、南極に渡った後もわたしの意識の中にひっかかっていた。  南極でわたしを迎えたのは大地を埋め尽くすアデリーペンギンの群れだった。卵を抱えたり、ひなを育てたりと大忙しだ。歩くことが得意でない上に、歩きにくいガレ場で奮闘する様子を見ていると、やはりペンギンは海鳥なのだということがわかる。

 ペンギンは世界に17種ほどいて、その多くが繁殖期に上陸する以外はほとんど海で過ごしているという。生息域は広く、南極近海ばかりか赤道直下のガラパゴス諸島にも及ぶ。

 海はつながっているのだから北半球に進出してくるペンギンがいてもおかしくない。ところがペンギンは南半球から出ることはない。考えてみれば不思議なことだ。

 詳しいことはわかっていないが、秘密は海流と関係があるらしい。南半球を周回する海流にオキアミなどのエサが豊富に含まれていて、ペンギンはその海流に乗って旅をしている可能性がある。

 現在ではペンギンに小型の発信機をつけて回遊調査が進められているので、ひょっとしたら北半球にも頻繁に行き来していることがわかってくるかもしれない。 ペンギンとシロクマを同時に見ることは水族館でしかできないが、何気ない会話から地球の知られざる神秘が浮かび上がることもあるのだ。

 

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第21回 トンパ文字 - 中国 雲南省

絵馬のように吊るされたトンパ文字の札(中国雲南省麗江にて)

 中国雲南省の麗江で風変わりな文字を見かけた。現地に暮らす少数民族のナシ族に古くから伝わるトンパ文字だ。生きた象形文字と呼ばれ、現代でも司祭などの間で使われている。

 もともと絵文字から発展したもので、見ているだけで意味が理解できるものもある。たとえば人が2人描かれている文字は「集まる」を意味し、2人の人が手をつないでいるものは「友だち」だという。

 発音はわからなくても、見ているだけで意志疎通が可能となる文字の存在には、地域ごとに花開く文化というばかりか、人種や国境を越えて伝わる文明の片鱗を見る思いがする。

 そういえば古代の4大文明が編み出した文字はいずれも象形文字だった。エジプトのヒエログリフ、メソポタミアの楔形文字、インダス文明のインダス文字、そして中国の漢字。改めて考えると不思議な符号だ。なぜ古代文明の文字は象形文字だったのだろうか。いずれも文字の使い手は神官のような特殊な地位にある階級の人たちだったが、一目瞭然の絵文字は近隣の文字を持たない民族の支配とコミュニケーションに一役買ったのかもしれない。

 その後ギリシア文明のはじまりとともに、文字は単純化された。アルファベットのような記号となり、複雑な情報のコミュニケーションが可能となった。

 それでも絵文字の文化は今でも標識などに用いられるピクトグラムとして残っている。言葉が通じない国に行っても非常口やトイレの場所がひと目でわかるのは安心感がある。いや、標識ばかりではない。最近では携帯電話でやり取りするメールにも絵文字が多く使われるようになった。ひょっとすると、そこから新たな世界言語が生まれてくるかもしれない。

 

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第22回 茶馬古道 - 雲南省 香格里拉

馬の通り道に目印がつけられた香格里拉の旧市街

 古道にはロマンが漂う。古代の中国とローマを結んだシルクロードや、南米のアンデス山脈に沿って数千キロも延びていたというインカ・トレイル。日本には熊野古道がある。いずれの道も交易や信仰を通じて、人と人とを結びつけた。新たな文化が生みだされ、繁栄をもたらした。

 わたしにとって気になる古道のひとつに茶馬古道があった。中国西南部の雲南省から四川省、チベットにかけて、標高4000~5000メートル以上の峻険な山々が連なっている。茶馬古道はそこを越える難所続きの道で、雲南省の茶とチベットの馬を交換した交易が行われていたという。時代の流れの中で、馬は車に取って代わられ、道も岩が転がる山道から整備された舗装道に変わってしまった。

 それでも往時の面影を今に残す場所があるという。茶馬古道沿いに栄えた古い町だ。

 そのひとつ中国雲南省の香格里拉(シャングリラ)を訪れたのは2012年のこと。町は新市街と旧市街に分かれ、旧市街の石畳は当時のまま保存されていた。そこにはかつて馬が歩く場所の目印とされた色違いの石が敷かれていた。

 現在の旧市街は観光地となり、古い民家は土産物屋として再利用されている。通りをそぞろ歩く観光客の姿を前にしていると、昔の茶馬古道の商人たちの賑わいを見る思いがした。

 歴史遺産にとって、観光向けの商業施設は景観を損ね、敬遠されることが多い。しかし香格里拉の場合、商店として蘇らせたことにより、昔の活気が再現されたばかりか、繁栄ぶりが継承されたように思えた。

 石を踏みならす馬のひずめは、今では旅行者が引くスーツケースの車輪の音となっている。いにしえの茶馬古道の商人たちはそのような光景を想像だにしなかったに違いない。

 

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第23回 幻のワイン - 雲南省 茨中

茨中に建つキリスト教会

 中国の最奥部に幻のワインが存在するらしいーー。

 雲南省最北部の山間に茨中という集落がある。チベット自治州に近く、チベット系の住民が暮らす小さな村だ。そこでは20世紀の初めごろからワインが造られ、今でも人々の間で醸造が行われているという。

 チベットといえば熱心なチベット仏教の信者たち。ヤクなどの家畜とともに遊牧生活をしながら、精神性豊かな文化を花開かせ、守り続けていることでも知られる。中東や西欧を中心に誕生したワインが、なぜチベットで造られ、飲まれているのだろう。

 中心都市の徳欽から車に揺られること3時間あまり。途中、崖崩れで通行止めの道を迂回してようやくたどり着いてみて驚いた。一面にぶどう畑が広がり、古風なキリスト教会が建っている。由来は1905年に遡るという。フランスから布教にきたペレ・ウバード神父は熱心に布教活動を行い、地元の信者たちと9年もの歳月をかけて教会堂を建て、周辺にぶどう畑を造ったのだという。ワインは予言者キリストの血にたとえられ、布教にも欠かせないものだったからだ。

 大戦により神父は不在となったが、地元の人たちにより信仰は細々と続けられた。

 2008年から教会堂を管理している中国人の姚飛神父に話を聞きながら、醸したワインをごちそうになった。カベルネソーヴィニヨン種のしっかりとしたボディを思わせる。酸味とまろやかさがひとつのハーモニーを奏でた。まさにフランス人神父が持ち込んだぶどうと醸造法の産物に間違いない。

 幻のワインは本当にあったのだ!

 中国奥地のぶどう畑が、ボルドーの丘陵地帯に重なって見えた。いや、温暖で湿潤な茨中こそ、中国のボルドーたりえるーー。フランス人神父はそれを見抜いていたのだろう。

 

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第24回 葦の浮き島 - ボリビア

チチカカ湖のウロス島

 旅をしていてカルチャーショックを覚えることはあっても、人生観に関わるほど衝撃を受けることはあまりない。

 南米のアンデス山脈にあるチチカカ湖を訪れた時、数少ないそんな体験をした。  チチカカ湖は標高3810メートルに位置し、汽船が航行可能な湖としては世界最高所だ。そこにウロス島と総称される人工の浮島群がある。葦を束ねてブロックのように積み上げ、湖に浮かべて造られた島だ。大小300ほどの島に病院や学校だけでなくレストランや宿泊施設も建っている。

 島に足を一歩踏み込むと、葦が敷き詰められた足元はまるでじゅうたんのようにふかふかで、建物も葦でできている。水に浸かった土台は年々腐っていくので、新しい葦を積み重ねて補修する。それでも十年ほど経つと寿命がくるという。

 ガイドによれば、それは観光客目当てに造られたわけではなく、現地のウル族が何代にもわたって暮らしてきた土地だという。なぜそのようなところに人が住み始めたのだろう。一説によればインカ皇帝に攻め込まれた彼らの祖先が、葦の生い茂る浮き島に逃げ込んだのが始まりだったという。

 それにしても彼らが浮き島に住みついてしまったのはなぜだろう。

 現地の人に島での暮らしについて聞いているうち、興味深い話が聞けた。

 彼らは家族が増えると島同士を自由にくっつける。喧嘩別れする場合は切り離してしまう。 土地に縛られることがないのだ。

 ふと日本のことを思った。われわれは土地や家のために、一生のかなりの年月を労働に費やす。ウロス島ではそんな悩みすらないようだ。 人間が生きるのは土地のためにあらず。 ウル族がそこで生きているのは、自由な世界を見つけ出したからではないかーー。生きるヒントを教えられた気がした。

 

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第25回 桃源郷 - 中国 湖南省

桃源郷を模した庭園。湖南省桃源にて

 中国湖南省の常徳市に桃源という農村がある。4世紀の詩人、陶淵明が詠んだ『桃花源記』に登場する理想郷(桃源郷)のモデルとされる場所だ。

 桃花源記』は不思議な話だ。東晋の太元年間(376-396)、武陵に暮らす漁師が道に迷って桃の花が咲き乱れる林に着いた。洞窟を見つけくぐり抜けると、のどかな農村に出た。住民は秦の時代に争乱を逃れてその地に住み着き、以後、外の世界とは断絶したまま代々暮らしてきたという。そこは争乱に巻き込まれることのない理想郷だったのだ。漁師は故郷に帰った後、再び村に戻ろうとしたが道に迷ってしまい、二度と見つけ出すことはできなかったー。

 そんな神秘的で誘惑に満ちた桃源郷を訪ねてみたいー。わたしが旅に出たのは2008年のことだ。現地には詩に登場するような洞窟や桃の庭園が設けられ、田園が広がっていた。観光地として整備されたもので、期待していたような世界ではなかった。

 夢が裏切られ、素朴な疑問が立ち上がってきた。なぜ桃源郷と関連づけられるようになったのだろう。地元の歴史を調べてみるとひとつの事実に出くわした。桃源のある武陵一帯には早くから道教が伝わり、七十二福地のひとつとされた。確かに桃源の周辺には洞庭湖をはじめ小さな湖が散在し、湖水を陸地にちりばめたような神仙郷の雰囲気が漂っている。

 道教では桃を不老長寿の仙果とみなす。桃源という地名から桃の木が多い土地だったのだろう。それが道教思想と結びついたのかもしれない。またわたしは現地で暮らしていた少数民族、五渓族に日本の浦島伝説とよく似た話が伝わっていたことを知った。どうやら『桃花源記』の背景には神仙思想と、地元で語り継がれてきた楽園訪問譚があるようだ。

 陶淵明はそれを耳にして詩の題材にしたのだろうか。彼の生まれを調べてみて、わたしは意外な事実にたどり着いた。陶淵明の祖先は五渓族の出身だったという。  彼はきっと楽園に自分のルーツを重ね合わせるように『桃花源記』を詠んだのではないか。桃源は一詩人の想像の賜物ではなく、土地と民族が悠久の時間の中で生み出した理想郷だったのだ。

 

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第26回 エアーズロック - オーストラリア

穴にも神話がある。エアーズロックにて

 オーストラリアを代表する景観のひとつにエアーズロック(現地名はウルル)がある。1987年に世界遺産に登録され、多くの観光客が訪れるようになった人気の観光地だ。世界で二番目に大きな一枚岩で、地表からの高さは335メートルある。

 実際に出かけてみて気づいたことがある。ガイドブックにはその岩壁をよじ上っている観光客の写真が掲載されていた。ところが現地に暮らす先住民のアボリジニはエアーズロックを神聖視するため一般人が登ることを禁止しているという。周辺には彼らの神話にまつわる聖地が多く点在し、立ち入り禁止の場所もある。とはいえ登頂に関しては観光業界からの要望が強く、禁止にすると観光収入が激減してしまう。そこで特別に許可されているのだという。

 岩であれ、山であれ、高い所を見つけると頂上に立ってみたくなる。全ての人が実際に行動に移すわけではないが、そんな衝動に駆られる人は多いのではないか。おそらく山に登るという行為は人間の本能のひとつではないかと思う。しかしエアーズロックのように、人間が禁忌とする岩や山は世界中に数多くある。そのほとんどは人間が立ち入ることで、聖地が汚されると考える。

 わたしはエアーズロックに二度出かけた。一度目は登頂し、二度目は登らずに周囲を歩いた。するとその違いは明らかだった。頂上に立った瞬間にそこは単なる展望台になってしまった。ところが周囲を歩くと、一枚の巨大な屏風絵を見て歩くようにエアーズロックはさまざまに表情を変え、まるで饒舌な物語を聞くかのような豊かな体験だった。アボリジニの人たちがなぜそれを神聖視してきたのかがよくわかるようだった。

 その時「登らない」という観光があってもいいのではないかと思った。現地の人が太古から守り続けてきた伝統を知ることも旅の発見のひとつだ。考えてみれば日本の富士山にもそんな側面がある。「富嶽三十六景」のように登るよりも、周囲から眺めた方が山と人の歴史、風俗、文化までをも理解できる。エアーズロックで感じたのはそんな自然と人間の未来の関わり方だった。

 

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第27回 謎の巨大石造物 - トンガ

トンガのハアモンガ・ア・マウイは鳥居にも似ている

 謎の古代石像物というとイースター島のモアイ像が思いつく。人間の身長をはるかに上回る石像がどのように造られたのか。石はどこから切り出され、どのようにして運搬されたのかー。必ず発せられる疑問だ。あれこれと推論が出される度に、謎は深まっていくばかりだ。

 南太平洋のトンガにあるハアモンガ・ア・マウイの三石塔にも同じようなことがいえる。他に巨石がない平地に、30~40トンもの石が三つ置かれている。門のように組み立てられて、見れば見るほど不思議な存在だ。考古学者の研究によれば13世紀頃に島を治めていた第11代国王ツイ・トンガの治世に完成されたものだというが、何のために造られたかは不明のままだ。

 モアイ像やトンガの三石塔ばかりか、太平洋には謎の石造建築物がたくさん存在している。ポンペイ島のナンマトール遺跡、グアム島やサイパン島のラッテ・ストーン、さらにはヤップ島の巨大な石貨まで。謎めいた存在だったことから、ムー大陸の遺跡だと言い出す人までいた。

 事実のほどはともかくとして、各地域に暮らしてきた人たちが石に対して特別の思いを抱いていたことがうかがえる。太平洋の島々に巨石文化が伝わっていることは確かなようだ。それにしても、なぜ石なのかー。

 わたしはミクロネシアの島々の伝説を調べている時、日本の神話とそっくりの話があることを知った。天皇家の祖先ニニギノミコトが岩のように醜いイワナガヒメを嫌い、花のように可憐なコノハナサクヤヒメと結婚したため、植物のように死ぬ運命を背負い、岩のような永遠を得ることができなくなったという話だ。それはわれわれ日本人にとっては教訓めいた話だが、太平洋の島々の人々にとっても石を神聖化し、同じように永遠を得たいという精神的な拠り所になっていたのかも知れない。石造物が巨大化すればするほど、その思いが強く伝わってくるようである。

 

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第28回(最終回) 亜丁 - 中国四川省

ついに姿を現した夏諾多吉(チャナドルジェ)

 なぜ旅に出るのかー。旅先でふと考えることがある。たとえば美しい山の風景をひと目見ようと出かけたのに、濃いガスに包まれて何も見えない時などだ。

 2012年7月。中国四川省にある亜丁(ヤディン)自然保護区の三神山に出かけた時もそうだった。仙乃日(チェンレースイ)、 夏諾多吉(チャナドルジェ)、央邁勇(ジャンベーヤン)。標高6000メートル前後におよぶそれら3つの霊峰は、それぞれ観音菩薩、金剛手菩薩、文鎮菩薩の化身とされる。ひと目見た者はその崇高さに心打たれ、菩薩と邂逅するかのような幸福感に包まれるという。

 ところがそれらの山々はいつも厚い雲に覆われ、なかなか姿を現さないことでも知られる。20世紀初めにナショナル ジオグラフィック協会から現地に派遣されたアメリカの探検家ジョセフ・ロックも、数度目にしてようやく青空に聳える山容をフィルムに収めることができたらしい。

 期待と不安が入り交じるまま、わたしは山へと向かった。急勾配にできた悪路を車で走ることまる一日。ようやく亜丁に着いた。鉛色の雲が空を覆い尽くしていた。運悪く、雨も降り出してきた。

 準備をし、苦労を重ねてここまで来たのだ。ひと目でいいから山々を拝みたいー。わたしは晴れるまでその場を立ち去らない覚悟を決め、一心に山に祈った。  翌日、やはり雲は鉄門のように固く閉ざされたままだ。夕方になり、その地を立ち去らなければならなくなった。ところがその直前、厚い雲の切れ目から山が姿を現した。

 雪を頂く夏諾多吉の勇姿にわたしは息を飲んだ。

 運がよかった。いや、これは自分の運不運ではない。心の中に込み上げてきたのは、ようやく山に願いを聞き入れてもらえたという感謝の念だった。

 なぜ旅に出るのか。その瞬間、いつもは曖昧なままだった答えが見えてきた。  旅とは土地神と心を触れ合わせるようなできごとだ。遠い異境が故郷のように感じられるような歓喜の瞬間だ。今後もそんな旅を続けていきたい。(完)

 

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